山手線。
おそらく、在来線の路線名としては日本で一番有名だと思います。
地方の人に「山手線って知ってる?」と質問しても、きっと多くの人が「東京をグルグル回っている電車でしょ」みたいな答えをしてくれると思います。
現在、山手線は1周34.5キロの環状線を約1時間かけて走るのですが、橋はあっても、トンネルはありません。
ですが、過去には2ヶ所にトンネルがありました。
1つ目のトンネルは、五反田駅と目黒駅の間にあった長峯トンネルで、明治末から大正の初頭頃に開削により消滅しています。
そして、もう1つが今日ご紹介する道灌山トンネルです。
道灌山トンネルは、駒込駅と田端駅の間に設けられていたトンネルですが、現在も一部が地表に出ているため、現地に行けば容易にトンネル跡を確認することができます。
図1は、現在の地図にトンネル跡が観察できる位置を示したもので、最寄りはJRの田端駅。その北口から、田端文士村記念館脇の坂道を上がり、台地の上へ出て「田端高台通り」を北方向に進むと、10分弱で山手線を渡る「富士見橋」に出ます。その橋上、あるいは橋を渡った反対側から、法面に飛び出した道灌山トンネル東口坑門の一部を見ることができます。
写真1がその坑門の一部で、法面に飛び出した煉瓦とコンクリートで構築された坑門の現況が、理解できるものと思います。
道灌山トンネルは、1902年(明治35)に竣工したトンネルです。
山手線の前身は、日本鉄道が1885年(明治18)に敷設した、品川駅から新宿・池袋・板橋を経て赤羽駅へ至る品川線ですが、1903年(明治36)に池袋から分岐して田端までの豊島支線を開設しました。道灌山トンネルは、その際に掘削されたもので、当時の記録によれば延長39フィート6インチとされていますから、約12メートルの短いものであったことがわかります。
写真2・3は「山手線複線開通記念絵葉書」からの一部ですが、道灌山トンネルの姿を伝える数少ない写真の一つです。
写真2を見ると、左側に3人の人物が並んでいますが、その背後の斜面を登った所に架線柱が見られます。この高い位置にあるのが現在の山手線であり、写真奥に写る白い陸橋(現在の富士見橋)の下には列車が見えます。また、写真中央左に見えるプレートガーターは、山手貨物線が田端操車場へと向かう中里トンネル入口手前で、山手線の下を潜るものとして現在でも使用されています。
そして中央に写る線路が旧線であり、カーブの奥に道灌山トンネル西口坑門が見えています。
現在、この旧線部分のプレートガーターより奥側は埋められ、手前は山手貨物線として使用されています。
写真3は、トンネルの近景ですが、残念ながら写されているのは西口坑門であり、現地で確認できる東口とは、逆位置のものとなります。赤の四角枠で囲った笠石と控壁の一部が現在見ることができる部分です。
さて、実際に現地に行ってその場に立つと、旧線跡は埋立てられ、そして家が建並んでいることから、なかなか旧線形を想像することが難しいのですが、幸いにも昭和22年に米軍が撮影した空中写真が残されており、それを見ることにより、新旧線形をよく理解することができます。
写真4が、その空中写真に要点を赤で加筆したものです。
中央にある線路を跨いでいるのが富士見橋であり、赤丸部分が写真1の東口坑門の笠石部分で、その上に記した矢印「撮影方向」から撮影したものです。
空中写真では、現線の内側に旧線の道床が奇麗な形で残されているのが確認できます。
この写真を見ると、道灌山トンネルが「田端高台通り」を、山手線の上に通すために設けられたトンネルであることが容易に察っせられ、技術的な側面から山岳トンネルとして掘削されたものではないことが理解できます。
都内には、万世橋駅跡や煉瓦積高架橋など明治時代に作られた鉄道施設が残されており、それらは大規模な構造物であることから、特に意識しなくても、誰もが容易に目にすることが出来ます。
それに対して道灌山トンネル跡は、視認できる部分が極めて小さいだけに、それを目的として観察しない限り、人々の目に留まることはほとんど無く、忘れ去られた明治の鉄道遺構と言えます。
しかし、池袋・田端間の豊島支線の建設が行われたからこそ、東京を支える交通としての現在の山手線が存在するわけで、この豊島支線のシンボル的な存在とも言える道灌山トンネルの歴史的意義を再評価し、今後は保存を講じ、後代へと伝えるべきではないでしょうか。