日本最初の電車

日本で最初に電車を営業運転に用いたのが、明治28年2月1日に七条停車場前から伏見町油掛の間で営業を開始した京都電気鉄道株式会社であることは、これまでにも多くの先学諸氏により度々紹介されています。
しかし、これに先立つ5年前、東京上野公園で開催された「第3回内国勧業博覧会」において、東京電灯株式会社が当時最先端の乗り物として、会場内の短い距離ではありましたが乗車料金を徴収し、電車に来場者を乗せて走りました。
いわゆる公共交通機関としての営業運転ではありませんが、実質的な日本で初めての電車運転としての栄誉は、こちらに与えられるものと思われます。

第3回内国勧業博覧会は1890年(明治23)4月1日から同年7月31日までの会期で、東京上野公園を会場として開催され、期間中に1,023,963人の入場者を記録しています。

この博覧会において電車を走らせる計画が、開催1年前には既に進んでいたことが、画像1に示す1889年(明治22)3月15日付け『中外商業』の記事からわかります。
本記事には、これまであまり注目されることはなかったものの、鉄道史の視点から重要な記述が含まれています。
それによると、東京電灯では米国スプレーク形を模倣した電動機の製作に成功したことから、その電動機を搭載した電車を走らせると記しているのです。(画像中の赤線は筆者による)
これは極めて重要な記述で、我国で初めて運転された電車に用いられた電動機が、たとえそれが米国製品のコピーであったとしても、国内で自製されたものか、否かでは、歴史的な評価が全く異なるものになります。

画像1

画像2・3が博覧会会場で撮影された写真で、米国J.G.ブリル社製、車体長7,300mm、軌間1.372mm、客室内は向い合わせのロングシートで座席定員は22名でした。

画像2
画像3

車両の輸入を行い電車を走らせた東京電灯は、日本最初の電力会社として1883年(明治16)に設立、1887年(明治20)に送電を開始しています。
送電を翌年に控えた1886年(明治19)12月17日には、帝国大学工科大学助教授を辞職した藤岡市助を、翌18日に技師長として迎え入れ、電力事業者としての技術基盤を整えて行きます。
藤岡は、技師長に就任して間もなくの12月30日に社用を帯び欧米各国を視察し、翌年6月に帰国。この時に米国にて2両の電車を購入したものと考えられます。(車両購入については、1884年(明治17)のフィラデルフィア電気博覧会の渡米に際してとされる考えも出されていますが、この考えには藤岡の当時の状況から見て無理があると言えます)
購入した電車が日本へいつ到着したのかは不明ですが、年内には到着したものと推定すると、2年前後をかけて先に記した電動機の研究と自製に費やしたものと考えられます。

さて、博覧会場での電車運転ですが、その路線距離について多くの混乱が見受けられ、筆者が確認しただけでも500、430、310mがあります。
地図1は当時のパンフレットからの一部ですが、幸いにも路線が記されています。ただし、本図は見取り図であるため、この図から距離を導き出すのは難しく、明治40年地図にトレースし直したのが地図2になります。その後の公園整備により現在は大きく改変されているため、地図2を元に現在の地図に表現し直したものが地図3です。
これによると、現在の国立西洋美術館敷地内の南西隅と、国立科学博物館日本館北翼に乗降場が作られ、西洋美術館西側の通りを直線で敷設されていたことがわかります。その距離を測ると約210m程になり、これまで言われていた距離とは大きく異なることがわかりました。

地図1
地図2
地図3

画像4に示すのは、1890年(明治23)5月7日付け『中外商業』の記事ですが、それによると、4日から運転をを開始し、乗車料金は大人2銭で子供は1銭。速度は遅いものの揺れはは無く、乗り心地は優れていたと記しています。
また、残されている写真やスケッチを見る限りにおいては、画像3の車両記録用写真以外は、2両編成のものばかりであるため、会場では2両編成で運転されていたものと考えられます。

画像4

上野公園での日本最初の電車運転は好評を持って受け入れられ、会期中には明治天皇をはじめとする、数名の皇族の乗車も記録されています。

博覧会終了後の2両の車両ですが、1両は現在の京浜急行である大師電気鉄道へ、もう1両は東京市街鉄道を経て東京市電の所有となり、青山車庫において保管されていましたが、空襲により焼失。焼け残った台車と電動機が戦後も保管されていたものの、損傷がひどく保存困難なため、最後は荒川車庫にて処分されてしまいました。
恐らく現在の保存修復技術を持ってすれば、保存可能だったと思われるだけに、早計な処分は極めて残念な結果だと思います。