瓦版「蒸気車」

明治5年(1872)6月12日(旧暦:5月7日)品川・横浜間が仮開業し、日本で最初の鉄道が走り始めました。
これにより、人々が2本のレールの上を走る機関車を目にすることとなり、それまで徒歩や駕籠、せいぜい馬程度しか陸上の移動手段を知らなかった人達は、大いに驚いたことでしょう。

これに先立つ18年前の安政元年(1854)1月。日本の開国を目指して2度目の来航をした米国のペリーは、将軍への33種類の献上品を持参しました。
その中で、近代文明を象徴するものとして、有線電信機の実物と蒸気機関車の模型がありました。
さすがに実物の蒸気機関を献上することは大きさや、技術的な事から無理があるので模型にしたのでしょう。
ですが、一言で「模型」と言っても、現在のような家庭で楽しむ小形のものではなく、実物の4分の1スケールと言う、極めて大きなものでした。

この模型のお披露目が行われたのは、幕府が横浜に設営した応接所の裏にあった空地においてでした。
そこに一周60間(約109メートル)程の線路を敷き、蒸気機関車・炭水車・客車の3両を走らせたのです。

この時の様子について、『ペルリ提督日本遠征記』は、3月16日の記事の中で、次のように伝えています。
「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備して居り、且、その客車は極めて巧に製作された凝つたものではあったが、非常に小さいので、六歳の子供をやっと進び得るだけであつた。けれども日本人は、それに乘らないと承知ができなかった。そして車の中に入ることができないので、屋根の上に乘った。圓を描いた軌道の上を一時間二十哩の速力で眞面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻はつてゐるのを見るのは、少からず滑稽な光景であった。彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑ひながら屋根の端しに必死にしがみついてゐたし、汽車が急速力で圓周の上を突進するときには、屋根にしがみっいてゐる彼の身體が一種の臆病笑ひで、痙攣的に震へるので、汽車の運動するのは何だか、極めて易々と動き突進する小さい機関車の力によると云ふよりも、寧ろ不安げな役人の且大な動きによつて起るもののやうに想はれたのである。」
ここに出てくる、模型に飛び乗り「笑ひながら屋根の端しに必死にしがみついて」いたのは、河田八之助という林大学頭の下で塾長を務めていた人物です。彼は日記に「前車は煙筒、火箱及び諸機関」「後車は人を載する箱」であると書き残しています。

この模型が走行するところを見ることが出来たのは、もちろん幕府の役人だけだったのですが、瓦版を通して一般民衆も知ることができました。
その瓦版が画像のものですが、なんとも奇妙な機関車になっています。
これは、瓦版製作者自身が実際に機関車を見て描いたものではなく、伝え聞いたところを想像によって描いたからにほかなりません。
記事を読むと、各車両の寸法や蒸気機関の若干のメカニズムなども記されているのですが、全く科学知識のない民衆が、これを読んでどの程度まで理解したのか興味があるところです。

実は、このペリーの模型機関車に先立つこと1年前の嘉永6年(1853)に、長崎に来航したロシア使節プチャーチンが、蒸気機関車の模型を乗艦である「ディアナ」号の船上で長崎奉行などに見せているのですが、この時は極めて限られた人の間でしか情報が共有されず、一般民衆の知るところとはなりませんでした。

このため、今回ご紹介した瓦版が、一般民衆が初めて蒸気機関車と言う近代文明の発明品を知ることができた、最初の情報源となったのです。