二代立祥(四代目歌川広重) 高輪蒸気車通行全図 明治4年

日本へは幕末に写真技術が入って来ましたが、それが一般化するには時間がかかりました。
そのため、初期の鉄道を多くの人々に紹介する手段としては、江戸時代以来の浮世絵が大きな位置を占めていました。これを「鉄道錦絵」と呼びます。

画像は、二代目立祥(四代目歌川広重)が描いた「高輪蒸気車通行全図」で、タイトルが示す通り、高輪を蒸気機関車が走る様子を描いたものです。
この錦絵、見た瞬間におかしなことに気が付いた方も多いのではないでしょうか。
大きなところだけでも、
1 機関車や客車の形がおかしい。
2 列車が走行しているのに一部線路が工事中。
です。

そもそも本図が描かれたのが明治4年で、鉄道開通は明治5年ですから、立祥が描いていた頃は試運転どころか、まだ工事の真っ最中。
つまり、彼は機関車や客車を見たことはなく「こんな感じかな」という想像で描いたにすぎません。
ですから、このような妙ちくりんな車両が描かれてしまったわけです。

車両は勝手な想像物ですが、絵の中には多くの正確な情報も描かれています。
例えば、奥に伸びる線路(横浜方面)は単線で、手前では複線になっています。線形を見ると、どうやら工事中の所にはポイントが設置されるようですね。
つまり、本線は単線で、駅では複線構造になることを正確に描いています。
位置関係がデフォルメされているので正確ではないのですが、ポイント工事の右側に描かれた民家付近に品川駅が設置されます。

また、車両が走行している部分は、海の中に築堤が築かれた状態になっていますが、これも正確に表現されています。
兵部省の反対で、品川・浜松町間は陸の海岸線を鉄道用地に出来なかったことから、絵に見られるように海中に築堤を築くことで路線としています。
このため、潮が引く干潮時に測量を行い、満潮で海中に没する時には作業中止だったと伝えられています。

鉄道とは直接の関係はありませんが、八ツ山橋の所には電信柱と電信線が描かれています。
電信は、鉄道よりも早く明治2年12月に東京・横浜間が開通しているので立祥もきちんと描いているのです。