鉄道70年記念切手

昭和17年(1942)は、日本の鉄道開業70年の年でした。
それを祝する目的のために、当時の逓信省は記念切手の発行を企画し、鉄道記念日であった10月14日に1種の記念切手を発行しました。
それが写真の切手で、描かれているのはC59形蒸気機関車です。

「鉄道70年記念」切手初日カバー

図案としてC59が選ばれた背景には、当時の最新鋭機であり、また看板列車であった特急牽引機としても、広く国民に知られた車両であったことがあげられます。

さて、画像の切手は封筒に貼られ、切手には変わった消印が押されています。
これは、切手収集家の間で「初日カバー」と呼ばれるもので、切手の発行日に切手を貼り、その日のために特別に用意された消印を押したものです。
この特別な消印を「特殊通信日付印」(以下、特印と略)と呼んでいます。

特印には、その記念行事に相応しい図案が描かれるのが常ですが、今回は「鉄道70年」と言うことなので、1号機関車が描かれています。
C59形蒸気機関車の切手に、1号機関車の特印が押されているわけで、ここに最新型の蒸気機関車と、最古の蒸気機関車が顔を揃えたことになります。
「鉄道70年」を祝うには、これ以上は無い素敵な記念品と言えましょう。

大桐駅(旧北陸本線)(2)

前回の記事の中で、大桐駅が明治41年6月1日に信号所から駅へ昇格したことを記しましたが、それを告知する官報掲載の記事を紹介するのを忘れてしまったので、写真(1)に補足しておきます。

写真(1)官報7470号 明治41年5月23日

写真(2)は、大桐駅下り線ホームから今庄方を見たもので、上り貨物列車が先頭に補機のDF50形ディーゼル機関車を伴って、今庄から登って来たところです。
上り線ホームには駅本屋をはじめとする諸施設が見えるのに対して、下りホームには小さな待合室しか見られません。
本写真は、大桐駅の様子がよくわかる1枚です。

写真(2)

写真(3)は、敦賀方のポイント(構内配線図参照)より若干駅寄りから撮影されたもので、上り貨物列車が出発したところです。
反対側の下り線には旅客列車が停車しており、僅かにホーム端を見ることができます。
本駅の敦賀方が曲線を描いている様子がよくわかる写真です。

写真(3)

写真(4)は、構内配線図です。上下線のホームがズレて設置されている様子が、本図からよくわかります。

写真(4)

現状は、線路跡が福井県道207号線として道路整備されており、上りホームの一部が道路脇に残され、見学することができます。

大桐駅(旧北陸本線)(1)

大桐駅は、明治29年(1896)7月15日の官設鉄道北陸線福井延伸時には無く、輸送量が増えた明治41年(1908)3月1日に大桐信号所として開設され、同年6月1日に地元の要望から駅に昇格しました。
そして、昭和37年(1962)6月9日、北陸トンネル経由の新線供用開始に伴い、朝の通勤・通学列車をもって営業を終了し、翌10日に廃止となりました。

大桐駅位置図

上の地形図は、現路線との位置関係をわかりやすくするため、旧線時代のものに新線で新しく設置された施設を書き加えたものです。
赤丸の今庄駅の位置は現在も同じであり動いてはいませんが、線形は今庄・南今庄間で若干ですが付け替えられています。
青丸の南今庄駅は、新線に切り替わった際に新しく設置された駅であり、旧線の大桐駅が廃止されるに伴い、地元の要望として代替駅として作られたものです。
その南今庄駅の西側には、北陸トンネルの今庄側入口があり青三角で示してあります。

旧線では、今庄駅を出た上り列車は山間部の狭い谷あいを進んで行きますが、大桐駅までの登り勾配は左程きついものではなく、山岳路線としての急勾配が始まるのは、大桐駅を発車後のことでした。

大桐駅上りホーム

写真は、大桐駅の上りホーム端(敦賀寄り)から今庄方面に向かって撮影したもので、先頭は補機であるDF50形ディーゼル機関車です。
なお、ホームのカーブにより写真では見えませんが、その後ろには本務機である蒸気機関車が連結されており、そこから吐き出されている煙が上空に写っています。

二代立祥(四代目歌川広重) 高輪蒸気車通行全図 明治4年

日本へは幕末に写真技術が入って来ましたが、それが一般化するには時間がかかりました。
そのため、初期の鉄道を多くの人々に紹介する手段としては、江戸時代以来の浮世絵が大きな位置を占めていました。これを「鉄道錦絵」と呼びます。

画像は、二代目立祥(四代目歌川広重)が描いた「高輪蒸気車通行全図」で、タイトルが示す通り、高輪を蒸気機関車が走る様子を描いたものです。
この錦絵、見た瞬間におかしなことに気が付いた方も多いのではないでしょうか。
大きなところだけでも、
1 機関車や客車の形がおかしい。
2 列車が走行しているのに一部線路が工事中。
です。

そもそも本図が描かれたのが明治4年で、鉄道開通は明治5年ですから、立祥が描いていた頃は試運転どころか、まだ工事の真っ最中。
つまり、彼は機関車や客車を見たことはなく「こんな感じかな」という想像で描いたにすぎません。
ですから、このような妙ちくりんな車両が描かれてしまったわけです。

車両は勝手な想像物ですが、絵の中には多くの正確な情報も描かれています。
例えば、奥に伸びる線路(横浜方面)は単線で、手前では複線になっています。線形を見ると、どうやら工事中の所にはポイントが設置されるようですね。
つまり、本線は単線で、駅では複線構造になることを正確に描いています。
位置関係がデフォルメされているので正確ではないのですが、ポイント工事の右側に描かれた民家付近に品川駅が設置されます。

また、車両が走行している部分は、海の中に築堤が築かれた状態になっていますが、これも正確に表現されています。
兵部省の反対で、品川・浜松町間は陸の海岸線を鉄道用地に出来なかったことから、絵に見られるように海中に築堤を築くことで路線としています。
このため、潮が引く干潮時に測量を行い、満潮で海中に没する時には作業中止だったと伝えられています。

鉄道とは直接の関係はありませんが、八ツ山橋の所には電信柱と電信線が描かれています。
電信は、鉄道よりも早く明治2年12月に東京・横浜間が開通しているので立祥もきちんと描いているのです。

3等寝台車周知用チラシ

日本で初めての3等寝台車と言えば、スハネ30000形式。
この形式の登場は、その後の3等寝台車やB寝台車の基本的な形を確立した点において、日本の寝台車史上画期的な車両として位置づけられます。

下の画像は、その3等寝台車が誕生した時に周知用として作成されたチラシです。
「寝心地のよき 三等寝台が出来ました」と、赤で記されたタイトルが目を引きます。

3等寝台周知用チラシ

チラシには上部に車両平面図を描き、その下に
・構造と価格
・連結列車
・連結位置と両数
・寝台番号の呼称
・料金
・寝台券
・御注意
の7項目を記し、あわせて車両断面図も掲載してあります。
この中で、「構造と価格」において、車両製作費が1両あたり2万2千円であったこと。
「寝台券」の項目では、乗車の4日前から寝台券を発売すること。
「御注意」には、寝具や枕の設備は無いが、1・2等寝台と同じく係員が世話をすることなど、興味深い事柄が記されています。

スハネ30000形は、試作車的要素が強く昭和6年に10両が作られ、その改良形の量産車としてスハネ30100形が昭和7年から12年までに110両が作られました。
このため両者を比較すると、車体の内外に数々の違いが見られます。

例えば、このチラシはスハネ30000形のものですが、平面図を見ると、車両の両端にあるトイレと客室を区画する扉がありません。
つまり、トイレと客室は同一空間内に存在するわけで、トイレに近い寝台では臭気が漂って来るものでした。また、このような構造でしたので、客室内での走行音も大きかったものと思われます。
そこで量産形では、下の画像のように客室とトイレを画する扉を設けて改良を行っています。
このチラシは、そうした意味においても初期の様子を伝える貴重なものと言えます

赤線が扉増設部分
赤線が扉増設部分

スハネ30000形を語る時に「カーテンは無かった」と言われることがあるのですが、この答えは正確でもあり、不正確でもあります。
当初は、下の画像のように通路と寝台を画する頭の部分に短いカーテンが設置されていました。

スハネ30000形

ですが、さすがに「これでは短い」と判断されたようで、スハネ30100形では下の画像のように長くされ、通路側から寝台側にカーテンレールで回り込む構造になり、顔の部分までがカーテンで覆われるようになりました。
上の2枚の画像を見比べると、その違いがよくわかると思います。

スハネ30100形(スハネ30000とのカーテンレールの違いに注目)

チラシには、「一、二等寝台同様係員をして御世話を致させます」と記されていることから、各車両に列車ボーイが乗務していたことがわかります。
しかし、図面を見ても列車ボーイの部屋(車掌室のような)は無く、トイレの向かいに「腰掛」(赤丸の部分)が用意され、そこがボーイの待機場所となっていたことがわかります。
列車ボーイは、一晩中この腰掛に座って待機していたのでしょう。なかなか大変な乗務だったと思います。

列車ボーイ用腰掛位置図

本資料は、一般向けに印刷された周知用チラシですが、そこに見えるのは、庶民的な料金(上段寝台が80銭。当時の新聞購読料は90銭であった。)の3等寝台車を普及させようとする鉄道省の姿勢。
昭和6年前後は、日本の経済力が戦前のピークに達しつつあった時代で、それに連動して人の動きも活発だったと思われます。
そうした時代背景に登場した3等寝台。鉄道省の意気込みが感じられるチラシです。


急行 飯田線秘境駅号

JR東海が不定期で運行している「飯田線秘境駅号」が、平成31年春にも「春の魅力溢れる列車旅を紹介する春の「Shupo[シュポ]」キャンペーン」(JR東海ニュースリリースより)の1つとして運行されました。

乗車したのは豊橋発の下り列車で、運行時刻は下記の通り。
秘境駅巡りを看板にしているだけあって、見どころ駅では停車時間をゆったりと取ってあり、乗車時間5時間40分という長丁場ですが、秘境駅探訪のみではなく、JR東海社員の皆さんのおもてなしや、地元の特産品販売などが要所要所の駅で企画されており、アッと言う間に時間が過ぎて行きます。

飯田線秘境駅号時刻表

豊橋駅発車ホームの案内表示には、今や絶滅種とも言える「急行」の文字。
若い方にはピンと来ないかも知れませんが、50代半ばの私にはノスタルジックでいい雰囲気。
昔は、上野や大阪などの巨大駅に行けば、各方面に向う「急行」の文字がズラリと並んでいたものです。

豊橋駅発車案内表示

車両は、JR東海373系3両編成。
この日(4月14日)の乗車率は8割程度で、1号車にはJR東海ツアーズの団体さんが乗り込み、個人客は主に2、3号車が割当られていたようです。
団体さんの中には車両端のボックス席を陣取り、テーブルの上に溢れんばかり(文字通りの山盛り)の飲食物を持ち込み「こんなにどうするの?」状態だったのですが、降りる頃にはあらかた食べ、飲み尽くし、おばちゃんパワーの凄さを目の当りに。
対して個人客は、男性1人の方も多く、熟年カップルもそこそこ見受けられるなど、落ち着いた雰囲気で旅行が楽しめました。

豊橋駅飯田線ホーム

豊橋駅では、出発時にJR東海の社員さんがズラリとホームに並んで見送りがあるのですが、出発直後に通過する豊橋運輸区前でも、写真のような盛大な見送りがあります。
また、車内では車掌さんの他に各車両ごとに事務系の社員さんも配置され、写真のシャッター係や各種演出に大忙し。
車掌さんの放送も中々手の込んだもので、「飯田線を盛り上げよう」というコンセプトが伝わってくる気持ちの良いものでした。

豊橋運輸区の皆さんによるお見送り

乗車すると配られるのが、写真の2点。
「乗車証」と「飯田線秘境7駅の見どころマップ」

「見どころマップ」を広げると、このように各駅ごとの歴史や見どころが、イラスト入りで解りやすく解説されています。
このマップのお陰で、駅巡りが10倍楽しくなりました。

最初の停車駅、新城での貴重な1コマ。
この駅では、後から来る特急「ワイドビュー伊那路1号」に抜かれるのですが、それのみではなく上り普通電車とも交換します
そのため、写真のような3線に並んだ写真が撮影できます。もちろん「秘境駅号」運転日ならではの貴重なロケーション。

右から「飯田線秘境駅号」「ワイドビュー伊那路1号」「普通列車」

対岸に渡ったかと思ったら、元の岸に戻ってしまうS字鉄橋こと「第6水窪川橋梁」は、最徐行で通過。
もちろん、なぜこのような線形になってしまったのか車掌さんによる解説付き。

川の上で曲がってます

「全国秘境駅ランキング」第3位の小和田駅。
痛みも少ない木造の駅舎なのですが、普通に利用する人はいないのでは・・・。

小和田駅(右端の「秘境駅号」が止っている所がホーム)

なにしろ駅前に立つ元製茶工場が、こんな感じなのですから。

荒れ果てた製茶工場跡(これでも駅前です)

そして、その隣にある民家跡。

内部は荒れ果て幽霊屋敷のよう(暗くなってから来ようとは決して思いません)

民家跡の脇には、1972年1月31日で販売終了したミゼットが・・・。
こんなものまで、駅の隣接地に放置されています。

左のコンクリート壁(コケに覆われている)の上が小和田駅

「全国秘境駅ランキング」第79位の伊那小沢駅。
桜がちょうど散り始めた時期でしたが、373系車両、駅構内踏切ともマッチして良い雰囲気。

旧型国電時代に来たかった・・・

「全国秘境駅ランキング」第6位の田本駅。
なぜか、山の斜面中腹に作られた駅で、右は山、左は崖です。しかも、ホームの両端がトンネルに。

山、山、山!

「飯田線秘境駅号」。
これまでに私が乗車した観光系列車の中で、最も楽しめた列車でした。
乗車中に、ひしひしと伝わってくるのが「飯田線秘境駅号」に携わっているJR東海社員さんのやる気。
それが、なんとも心地よいのです。

乗車券の他に安価な急行券で乗れるこの列車は、単体で算盤勘定をすると収益は無いに等しいと思います。
ですが、列車単体の収益よりも「秘境駅号」をきっかけにして、収益の厳しいローカル線である飯田線を知ってもらい、そして盛り上げていこうとする気持ちが伝わって来るのです。
それが、車掌さんの車内放送であったり、停車中の運転士さんとの会話、制服組ではない社員さんの奮闘ぶり、フレンドリーさから伝わってきます。

鉄道会社として、こうした柔軟な発想と企画が持てるということは素晴らしいことではないでしょうか。
鉄道の収益を根本的に支えるのは、極く一部の富裕層ではなく、平均的な一般利用者であることに疑う余地はありません。
富裕層をターゲットにした豪華列車の運行ばかりが目に付く今日この頃ですが、「飯田線秘境駅号」は、一般利用者が気軽に乗れ、しかも乗って楽しい列車の旅を提供してくれます。
地味ではありますが、草の根運動のような、こうした取り組みは利用者として応援したくなります。
鉄道が好き、旅行が好きと言う方には、ぜひ1度は乗っていただきたい列車です。

今庄駅(2)

今庄駅構内配線図(昭和25年3月)

上の画像は、昭和25年3月現在の今庄駅の配線図ですが、一見して、地方の幹線中規模駅であることが、見て取れると思います。
図の上部、太線で表現されているのが本線で、下部の細線で表現されている部分が機関区になります。

同上主要部分拡大(一部加筆)

主要部分の拡大です。
前回の今庄駅全景写真は、赤矢印の場所から撮影したものです。
機関区の主要施設である炭給台、給水塔、転車台、機関庫の施設名は、オリジナル図では記されていないので、拡大図では便宜上書き込みを行いました。これにより位置関係が理解できると思います。

旅客関係ホームでは、図中の上り本線と中線が入る島式ホームは現状と変わりありませんが、駅本屋と一体になっている下り本線ホームは大きく改変されています。
具体的には、赤枠で囲まれた貨物ホームが廃止され、本屋とホームが切り離された後に、下り線が本屋とホームの間に増設されています。
この増設工事により、島式ホーム2面4線の構造となりましたが、この増設工事がいつの時点で行われたものかは、確認が取れていません。

機関庫近景(南から)

機関庫の近景です。
今庄機関区には山中峠越えのための補機として、8~9両(時期によって異なる)のD51形蒸気機関車が配置されていましたが、北陸トンネルの開通により山中峠越えの路線が廃線となったことに伴い、その性格上から今庄機関区も廃区となっています。

「今庄まちなみ情報館」ジオラマ

現在、今庄駅に隣接して「今庄まちなみ情報館」という観光ガイダンス施設が設置されており、鉄道についても多くの展示スペースが割かれています。
この施設の鉄道展示は、私が監修して作られたもので、Oゲージで作られた今庄駅と今庄機関区のジオラマは展示の目玉となっています。
下の写真がそのジオラマですが、45分の1スケールで製作されているため、面積的に全てを作ることが不可能であったことから、主要部分のみを作ってあります。
このジオラマについては、別項でご紹介したいと思います。

今庄駅(1)

今庄駅全景(南から)

福井県の嶺北と嶺南を分ける木ノ芽峠の麓に位置する山間の小駅、北陸本線今庄駅。

現在は、普通電車と早朝の敦賀行き快速電車が停車する小さな駅になってしまいましたが、昭和37年6月に北陸トンネルが開通するまでは、今庄・敦賀間の山中峠越えに備えるための駅として全列車が停車する主要駅であり、駅の西側には今庄機関区がありました。

しかし、北陸トンネルが開通したことにより、峠越えの補機の基地であった今庄機関区の必要性が無くなり、衰退していったのが現在の姿です。

今でも、当時の名残のため構内が広く、機関区設備の一部が残存していることから、僅かですがかつての今庄駅繁栄の様子を窺い知ることができます。

さて、上の写真ですが、敦賀方から福井方に向かって撮影したものです。

左側が駅で、左端の1番線の下り貨物列車は、まだ到着したばかりで後部補機が付いています。
3番線に見えるのは、編成が短い旅客列車なので普通列車と思われます。

そして、右側が今庄機関区。
DF50形ディーゼル機関車が停車している三角屋根の施設が給炭施設で、この施設は屋根は撤去されていますが、現在も残されておりホームから見ることができます。