敦賀所在の眼鏡橋遺構

現在、我々が利用する敦賀駅は、明治42年(1909)に移転されたもので、それまでは現在地より北に位置する気比神宮前にありました。
位置図1は、昭和7年修正の地形図に開業当初の線形を赤線で書き加えたもので、旧線と新線の位置関係が容易に把握できるものと思います。

位置図1

今回ご紹介する眼鏡橋は、米原方面から来た列車が敦賀駅に進入する手前で水路を渡る際に架橋されたものです。この水路は、現在では眼鏡橋部分では流路を変えていますが、その前後では明治以来の流れを変えていません。

位置図2は、現在の地図に眼鏡橋遺構の位置を書き加えたものです。敦賀駅から徒歩数分の距離にありますが、現地には特に目印も無く、民間駐車場の片隅にひっそりと残されており、訪れる人は全くいないようです。
現地に行かれる際には、見落とさないように注意が必要です。

位置図2

写真1は、眼鏡橋遺構の全景です。ご覧のように上部構造は失われており、煉瓦積みアーチが露出した状態で、一部は崩壊(写真3)している部分もあります。写真は、西側から東方向に向かって撮影しています。
橋の幅は約9,000ミリを測ることから、おそらく30フィート(9,140ミリ)の規格で設計されたものと考えられます。

写真1

写真2では、アーチの状況がよく理解できます。
基礎部分は泥で埋もれており詳細は不明ですが、大きめの切石で作られていると想定され、その上に花崗岩の切石を2段に積み上げ、それを煉瓦積みの基礎としています。
煉瓦は二重積み構造となっており、内側は23枚、外側は28枚で構成されています。アーチの内径が930ミリであることから、3フィート(914ミリ)で規格されたものと考えられます。

写真2

煉瓦積みの一部が崩壊しているため、築造状況を知るのに好都合なのが写真3です。
積み方の断面は写真2でわかりますが、平面的な状態は写真3の方がわかりやすいでしょう。

写真3

通常、私達が知っている煉瓦は長方形で規格されたものですが、写真4を見てもわかるとおり、本橋で使用された煉瓦は、アーチ形の積み上げに適した断面台形を呈するもので、上辺と下辺の間には7ミリの差があります。
複数の煉瓦を計測するとミリ単位で若干のバラつきが認められますが、これは焼成段階による歪みと考えられ、極めて均一性の高い製品が使用されています。

写真4

敦賀・長浜間の鉄道敷設は明治13年(1880)4月に始まり、早くも翌14年2月13日には敦賀・疋田間で貨物の仮営業を始めています。このことから本橋は明治13年末頃には架橋が終わっていたものと想定され、日本の鉄道黎明期における貴重な文化財の一つであることが理解できます。
ただ、今まで見てきたように上部構造が削平されてしまい、全容を知ることができないのが残念な点ではありますが、幸い、同じ構造橋が近隣の敦賀市疋田にほぼ完全な形で残っています。それが写真5になります。

写真5

写真5の煉瓦橋は、2020年4月16日付け「敦賀市疋田に残る旧北陸本線の遺構」の記事で紹介したものです。
本橋は大形構造のため四重の煉瓦積みになっていますが、花崗岩の切石で基礎を築き、煉瓦積みアーチを構築し、その上に花崗岩の切石で構造物を造る手法は眼鏡橋と共通するものと想定され、規模は異なるものの眼鏡橋も基本的には本橋と同じ様相見せていたものと考えられます。

今回ご紹介した眼鏡橋は、明治13年という日本の鉄道史を考えると早い段階の煉瓦積み遺構であることや、今となっては、敦賀駅周辺において開通当初の敦賀線を知ることができる遺構は本橋以外にはない点など、極めて重要かつ貴重な鉄道遺構であると言えます。
しかしながら、遺構の現状を見る限りにおいては保存処置が全くとられておらず、いつ崩壊するかもわからないのが現状です。
地元自治体は、眼鏡橋を含めた周辺の公有地化を行い、崩壊を防ぐための保存処理と整備を早急に行う必要があるでしょう。
幸い本地点は敦賀駅から徒歩数分に位置しているため、観光のミニスポットとしての魅力は十分にあります。