大桐駅(旧北陸本線)(2)

前回の記事の中で、大桐駅が明治41年6月1日に信号所から駅へ昇格したことを記しましたが、それを告知する官報掲載の記事を紹介するのを忘れてしまったので、写真(1)に補足しておきます。

写真(1)官報7470号 明治41年5月23日

写真(2)は、大桐駅下り線ホームから今庄方を見たもので、上り貨物列車が先頭に補機のDF50形ディーゼル機関車を伴って、今庄から登って来たところです。
上り線ホームには駅本屋をはじめとする諸施設が見えるのに対して、下りホームには小さな待合室しか見られません。
本写真は、大桐駅の様子がよくわかる1枚です。

写真(2)

写真(3)は、敦賀方のポイント(構内配線図参照)より若干駅寄りから撮影されたもので、上り貨物列車が出発したところです。
反対側の下り線には旅客列車が停車しており、僅かにホーム端を見ることができます。
本駅の敦賀方が曲線を描いている様子がよくわかる写真です。

写真(3)

写真(4)は、構内配線図です。上下線のホームがズレて設置されている様子が、本図からよくわかります。

写真(4)

現状は、線路跡が福井県道207号線として道路整備されており、上りホームの一部が道路脇に残され、見学することができます。

大桐駅(旧北陸本線)(1)

大桐駅は、明治29年(1896)7月15日の官設鉄道北陸線福井延伸時には無く、輸送量が増えた明治41年(1908)3月1日に大桐信号所として開設され、同年6月1日に地元の要望から駅に昇格しました。
そして、昭和37年(1962)6月9日、北陸トンネル経由の新線供用開始に伴い、朝の通勤・通学列車をもって営業を終了し、翌10日に廃止となりました。

大桐駅位置図

上の地形図は、現路線との位置関係をわかりやすくするため、旧線時代のものに新線で新しく設置された施設を書き加えたものです。
赤丸の今庄駅の位置は現在も同じであり動いてはいませんが、線形は今庄・南今庄間で若干ですが付け替えられています。
青丸の南今庄駅は、新線に切り替わった際に新しく設置された駅であり、旧線の大桐駅が廃止されるに伴い、地元の要望として代替駅として作られたものです。
その南今庄駅の西側には、北陸トンネルの今庄側入口があり青三角で示してあります。

旧線では、今庄駅を出た上り列車は山間部の狭い谷あいを進んで行きますが、大桐駅までの登り勾配は左程きついものではなく、山岳路線としての急勾配が始まるのは、大桐駅を発車後のことでした。

大桐駅上りホーム

写真は、大桐駅の上りホーム端(敦賀寄り)から今庄方面に向かって撮影したもので、先頭は補機であるDF50形ディーゼル機関車です。
なお、ホームのカーブにより写真では見えませんが、その後ろには本務機である蒸気機関車が連結されており、そこから吐き出されている煙が上空に写っています。

二代立祥(四代目歌川広重) 高輪蒸気車通行全図 明治4年

日本へは幕末に写真技術が入って来ましたが、それが一般化するには時間がかかりました。
そのため、初期の鉄道を多くの人々に紹介する手段としては、江戸時代以来の浮世絵が大きな位置を占めていました。これを「鉄道錦絵」と呼びます。

画像は、二代目立祥(四代目歌川広重)が描いた「高輪蒸気車通行全図」で、タイトルが示す通り、高輪を蒸気機関車が走る様子を描いたものです。
この錦絵、見た瞬間におかしなことに気が付いた方も多いのではないでしょうか。
大きなところだけでも、
1 機関車や客車の形がおかしい。
2 列車が走行しているのに一部線路が工事中。
です。

そもそも本図が描かれたのが明治4年で、鉄道開通は明治5年ですから、立祥が描いていた頃は試運転どころか、まだ工事の真っ最中。
つまり、彼は機関車や客車を見たことはなく「こんな感じかな」という想像で描いたにすぎません。
ですから、このような妙ちくりんな車両が描かれてしまったわけです。

車両は勝手な想像物ですが、絵の中には多くの正確な情報も描かれています。
例えば、奥に伸びる線路(横浜方面)は単線で、手前では複線になっています。線形を見ると、どうやら工事中の所にはポイントが設置されるようですね。
つまり、本線は単線で、駅では複線構造になることを正確に描いています。
位置関係がデフォルメされているので正確ではないのですが、ポイント工事の右側に描かれた民家付近に品川駅が設置されます。

また、車両が走行している部分は、海の中に築堤が築かれた状態になっていますが、これも正確に表現されています。
兵部省の反対で、品川・浜松町間は陸の海岸線を鉄道用地に出来なかったことから、絵に見られるように海中に築堤を築くことで路線としています。
このため、潮が引く干潮時に測量を行い、満潮で海中に没する時には作業中止だったと伝えられています。

鉄道とは直接の関係はありませんが、八ツ山橋の所には電信柱と電信線が描かれています。
電信は、鉄道よりも早く明治2年12月に東京・横浜間が開通しているので立祥もきちんと描いているのです。

3等寝台車周知用チラシ

日本で初めての3等寝台車と言えば、スハネ30000形式。
この形式の登場は、その後の3等寝台車やB寝台車の基本的な形を確立した点において、日本の寝台車史上画期的な車両として位置づけられます。

下の画像は、その3等寝台車が誕生した時に周知用として作成されたチラシです。
「寝心地のよき 三等寝台が出来ました」と、赤で記されたタイトルが目を引きます。

3等寝台周知用チラシ

チラシには上部に車両平面図を描き、その下に
・構造と価格
・連結列車
・連結位置と両数
・寝台番号の呼称
・料金
・寝台券
・御注意
の7項目を記し、あわせて車両断面図も掲載してあります。
この中で、「構造と価格」において、車両製作費が1両あたり2万2千円であったこと。
「寝台券」の項目では、乗車の4日前から寝台券を発売すること。
「御注意」には、寝具や枕の設備は無いが、1・2等寝台と同じく係員が世話をすることなど、興味深い事柄が記されています。

スハネ30000形は、試作車的要素が強く昭和6年に10両が作られ、その改良形の量産車としてスハネ30100形が昭和7年から12年までに110両が作られました。
このため両者を比較すると、車体の内外に数々の違いが見られます。

例えば、このチラシはスハネ30000形のものですが、平面図を見ると、車両の両端にあるトイレと客室を区画する扉がありません。
つまり、トイレと客室は同一空間内に存在するわけで、トイレに近い寝台では臭気が漂って来るものでした。また、このような構造でしたので、客室内での走行音も大きかったものと思われます。
そこで量産形では、下の画像のように客室とトイレを画する扉を設けて改良を行っています。
このチラシは、そうした意味においても初期の様子を伝える貴重なものと言えます

赤線が扉増設部分
赤線が扉増設部分

スハネ30000形を語る時に「カーテンは無かった」と言われることがあるのですが、この答えは正確でもあり、不正確でもあります。
当初は、下の画像のように通路と寝台を画する頭の部分に短いカーテンが設置されていました。

スハネ30000形

ですが、さすがに「これでは短い」と判断されたようで、スハネ30100形では下の画像のように長くされ、通路側から寝台側にカーテンレールで回り込む構造になり、顔の部分までがカーテンで覆われるようになりました。
上の2枚の画像を見比べると、その違いがよくわかると思います。

スハネ30100形(スハネ30000とのカーテンレールの違いに注目)

チラシには、「一、二等寝台同様係員をして御世話を致させます」と記されていることから、各車両に列車ボーイが乗務していたことがわかります。
しかし、図面を見ても列車ボーイの部屋(車掌室のような)は無く、トイレの向かいに「腰掛」(赤丸の部分)が用意され、そこがボーイの待機場所となっていたことがわかります。
列車ボーイは、一晩中この腰掛に座って待機していたのでしょう。なかなか大変な乗務だったと思います。

列車ボーイ用腰掛位置図

本資料は、一般向けに印刷された周知用チラシですが、そこに見えるのは、庶民的な料金(上段寝台が80銭。当時の新聞購読料は90銭であった。)の3等寝台車を普及させようとする鉄道省の姿勢。
昭和6年前後は、日本の経済力が戦前のピークに達しつつあった時代で、それに連動して人の動きも活発だったと思われます。
そうした時代背景に登場した3等寝台。鉄道省の意気込みが感じられるチラシです。


今庄駅(2)

今庄駅構内配線図(昭和25年3月)

上の画像は、昭和25年3月現在の今庄駅の配線図ですが、一見して、地方の幹線中規模駅であることが、見て取れると思います。
図の上部、太線で表現されているのが本線で、下部の細線で表現されている部分が機関区になります。

同上主要部分拡大(一部加筆)

主要部分の拡大です。
前回の今庄駅全景写真は、赤矢印の場所から撮影したものです。
機関区の主要施設である炭給台、給水塔、転車台、機関庫の施設名は、オリジナル図では記されていないので、拡大図では便宜上書き込みを行いました。これにより位置関係が理解できると思います。

旅客関係ホームでは、図中の上り本線と中線が入る島式ホームは現状と変わりありませんが、駅本屋と一体になっている下り本線ホームは大きく改変されています。
具体的には、赤枠で囲まれた貨物ホームが廃止され、本屋とホームが切り離された後に、下り線が本屋とホームの間に増設されています。
この増設工事により、島式ホーム2面4線の構造となりましたが、この増設工事がいつの時点で行われたものかは、確認が取れていません。

機関庫近景(南から)

機関庫の近景です。
今庄機関区には山中峠越えのための補機として、8~9両(時期によって異なる)のD51形蒸気機関車が配置されていましたが、北陸トンネルの開通により山中峠越えの路線が廃線となったことに伴い、その性格上から今庄機関区も廃区となっています。

「今庄まちなみ情報館」ジオラマ

現在、今庄駅に隣接して「今庄まちなみ情報館」という観光ガイダンス施設が設置されており、鉄道についても多くの展示スペースが割かれています。
この施設の鉄道展示は、私が監修して作られたもので、Oゲージで作られた今庄駅と今庄機関区のジオラマは展示の目玉となっています。
下の写真がそのジオラマですが、45分の1スケールで製作されているため、面積的に全てを作ることが不可能であったことから、主要部分のみを作ってあります。
このジオラマについては、別項でご紹介したいと思います。

今庄駅(1)

今庄駅全景(南から)

福井県の嶺北と嶺南を分ける木ノ芽峠の麓に位置する山間の小駅、北陸本線今庄駅。

現在は、普通電車と早朝の敦賀行き快速電車が停車する小さな駅になってしまいましたが、昭和37年6月に北陸トンネルが開通するまでは、今庄・敦賀間の山中峠越えに備えるための駅として全列車が停車する主要駅であり、駅の西側には今庄機関区がありました。

しかし、北陸トンネルが開通したことにより、峠越えの補機の基地であった今庄機関区の必要性が無くなり、衰退していったのが現在の姿です。

今でも、当時の名残のため構内が広く、機関区設備の一部が残存していることから、僅かですがかつての今庄駅繁栄の様子を窺い知ることができます。

さて、上の写真ですが、敦賀方から福井方に向かって撮影したものです。

左側が駅で、左端の1番線の下り貨物列車は、まだ到着したばかりで後部補機が付いています。
3番線に見えるのは、編成が短い旅客列車なので普通列車と思われます。

そして、右側が今庄機関区。
DF50形ディーゼル機関車が停車している三角屋根の施設が給炭施設で、この施設は屋根は撤去されていますが、現在も残されておりホームから見ることができます。